匠の技Master Craftsmanship

匠の技

加藤 要 棟梁

加藤 要棟梁

燻し銀の職人。少年の日の夢を追い続けて。

物を作るのが好きだった少年は、家にあった工具を持ち出しては、本立てや椅子を造って遊んでいた。夢は大工になること。自分が思い描いた物が形になっていくことが、楽しくてたまらなかった。

15歳の春、夢は現実に向け、大きく前進。室蘭市内の棟梁に弟子入りする。師匠は60歳を超える大ベテラン。まだ幼さが残る少年を厳しく指導した。昔気質の職人の指導は、いまでは考えられない厳然とした師弟関係があった。しかし、少年は楽しくてたまらない。なにより大工仕事が大好きであったから。

そんな少年も師匠の年齢に近づいたが、その目の輝きは少年時代と何の変わりもない。幼い日から天職と決めた仕事への情熱は冷めることを許さない。加藤要棟梁。「困ったときは加藤棟梁」と言われるほど、現場への責任感が強い。工期のない仕事、熟練の技が要求される建築、そんな難工事は、なぜか加藤棟梁に任される。厳しい修行で培われたプライドは「出来ない」と、決して言わせない。職人の中の職人。そんな加藤棟梁を指定する建て主には、なぜか職人気質の客が多い。玄人受けする大工。まさに燻し銀の職人だ。

つい最近竣工した白鳥台のモデルハウス。加藤棟梁をもって「難しかった」と言わしめた住宅。R(曲面)をもたせた壁面を、パイン材で仕上げた内装。玄関屋根にもRを採り入れた設計。職人泣かせの要望にも、類稀な匠の技で応えた。さらに驚くのは、「大変勉強になった」と、常に向上心を忘れない棟梁の姿勢だった。これだけの技術を持った職人、内に秘めたプライドは計り知れない。しかし、その誇りを、加藤棟梁は決して表に出さない。「それは自分の問題」と言わんばかりに、雑用とも思われる仕事も笑ってこなす。やはり、この仕事が好きでたまらないのだ。

顔も見たことがない祖父が、やはり大工だったという加藤棟梁。朝の仕事は清めとも言える現場の清掃から始まる。「日々勉強」という謙虚な職人を、きっと今は亡き師匠と祖父が、やさしい目で見守っているに違いない。

渡部 圀男 棟梁

渡部 圀男棟梁

海を愛する孤高の職人。

鑿(のみ)を打つ音が、静まり返った現場にリズミカルに響く。渡部圀夫棟梁、この道の大ベテランだ。とても六十代には見えない若々しさ、大エの命である「道具」を持てば、小柄な体格が嘘のように大きく見える。

生まれは函館市、幼少から十九歳までは、本州最北端のマチ、青森県大間町で過ごした。「いまでこそ本マグロ漁で有名だけど、当時は貧しい漁師マチ、一年の半分は強風が吹き荒れる厳しい自然だけが思い出さ」。中学生の頃から家業の漁師を手伝い、繁忙期には学校を休み、浜に出る。今の時代では信じられないが、それが当たり前であった。

十九の春、実兄の誘いにより、室蘭市で大工の道に入る。師匠の家に住み込みで四年間、厳しい修行時代を経験した。鋸(のこぎり)の目立て、鑿、鉋(かんな)の研ぎ。窓枠まで大工が作った当時の弟子は、そんな基礎からみっちり仕込まれた。「正月休みも道具の手入れで時間をつぶしたよ。特に行くところもなかったし、気がねなく、独りでいるのが好きだったから…」。

上下間係が歴然とした職人社会、厳しい修行に耐えたのは、大間の強い風の中、ひた向きに働いた漁師時代の経験、東北の風土に鍛え上げられた「じょっぱり」の精神だろう。「オレ、やっぱり海が好きなんだな」。寡黙を絵に描いたような棟梁がポツリと呟いた。趣味は約り。休日には独り、マイボートで海へ出る。やはり、気がねのない単独行動が基本だ…。

現場では、余計なことは喋らない。頑固一徹の棟梁は見るからに無口な職人を貫く。が、内に秘めた仕事へのこだわりは、まるで津軽じょんがら節の激しいバチさばきのように、メラメラと燃えたぎっている。その脳裏には、西風で荒れ狂う津軽海峡から響く海鳴りが聴こえ「負けてらんねえゾ!」と棟梁を励ましている。

笹谷 光宏 棟梁

笹谷 光宏棟梁

現場は職人の舞台。

カンカン、カンカン。小気味いいノミを叩く音が現場に響く。雪駄(せった)履きで独り、淡々と作業に打ち込む笹谷光宏棟梁が音の主。舞台芸術を支えるスタッフ(裏方)がよく雪駄を履く。足音が響かない利点もあるが、何より神聖な舞台への礼儀が、これを履く理由だ。現場は職人にとって晴れ舞台、雪駄を履く理由もここにある。

道北・遠軽町出身、室蘭育ち。18歳で弟子入りした、この道の大ベテラン笹谷。彼の現場は異常なほどに綺麗だ。出番を待つ材木は、まるで直角を正確に測ったように、造りかけの壁に水平に積まれている。作業場には一分の無駄もない。現場を見れば職人の実力が分かるというが、ここまでくると、その常識をも凌駕した感を受ける。

笹谷は、良い意味で営業マン泣かせの職人だ。年間のスケジュールは、指名客の仕事で全てが埋る。「営業いらずの大工」とまでいわれる凄腕の持ち主。笹谷の場合、自身がまったく知らない建て主から指名が入る。丁寧で確かな仕事に感動した笹谷ファンが、彼を紹介するのだ。しかも年々、その輪が広がっている。

このシリーズで何度も書いてきたが、木には性格がある。ここに木造住宅の難しさが潜んでいる。笹谷は木と対峙するのではなく、優しく木材に語り掛けているような、そんな表情をしている。不思議に木は、笹谷の言うことを聴くように、ピタッと収まってしまう。経験だけが成し得る職人技だ。現代建築は科学で家を見てきた。結果、あたかも職人が不要な家づくりに陥りがちだが、木造住宅には、やはり優秀な職人が不可欠だ。長年受け継がれてきた、木の文化を、意味もなく捨て去ることはできない。

台本(図面)に、ただ忠実な劇に面白みはない。演出・舞台監督・裏方。全てを独りでこなすのが棟梁、まさに現場は舞台だ。その舞台を面白くするのも、つまらなくするのも棟梁の腕ひとつ。いい訳は通用しない。そんな職人唯一の花道が引き渡し。観客である建て主を感動させるコツを心得た数少ない職人が、笹谷光宏棟梁だ。

山神 喬 棟梁

山神 喬棟梁

敏感な感性で心をつかむ職人。

海鳴りが聞こえる漁師マチの新築現場、基礎から柱が立ち、どんどん家が形になっていく。そんな光景を興味津々に見つめる少年がいた。

「危ないからそっちいってろ!」、短気な職人の罵声にも臆することなくも満面の笑顔で、大工たちの仕事ぶりを見つめていた。なにより、物を作ることが大好きであったから、新築現場は夢の世界に等しかった。成長した少年は中学校卒業と同時に、建具職人の元へ弟子入り、幼い日の夢が現実となってきた。しかし、時代はアルミ建具が主流となり、仕事が激減、一度目の転機を迎えることになる。建築大工への転身だった。

この少年こそ、幼い日の山神喬棟梁である。「人懐っこい目」は歳を重ねたいまも、あの時と変わらない。建具職人から一転して大工の道に入ったのが20歳のとき。見よう見まねで、必死に仕事を覚えた。いろいろな棟梁の元で修行、「それぞれやり方が違うからね、勉強になったよ」と、各棟梁の良いところを吸収してきた経験が、大工としての幅を広げた。二度目の転機は32歳のとき、萩原啓次棟梁との出会いだった。妥協を許さぬ仕事で、当時から業界では一目置かれる存在。「とにかく厳しかった。何度も辞めようと思ったよ」と振り返るが、少年時代からの夢を、完全に捨て去ることはできなかった。厳しい教えから、大工仕事の奥深さを知り、名人、萩原棟梁の存在は、いまも心の支えとなっている。

寡黙な職人が多いなか、山神棟梁の現場は賑やかだ。何より、建て主との会話を大切にする。現場に笑い声が響くことも度々、素人の質問にも親切丁寧に答える。生まれ育った登別市富浦町、古き良き時代の「浜」で育まれた大らかな性格が、プラスに作用する。普通、建て主はまず担当営業マンに相談するが、「先に山神さんに言わないとだめだ」となり、営業マンが嫉妬心を持つこともあるほど、固い信頼関係を築いてしまう。それも会話の中から要望を探り、言葉に出す前に、仕事で解決してしまう。かゆい所に手が届く仕事ぶりが、建て主の心をつかんで離さないのだろう。師匠もなく始まった大工の道、遠回りした分、心の温もりが家づくりには欠かせないことを、無意識のうちに悟った職人が山神喬棟梁なのだと思う。

「この仕事が好きだからね」。少年の日、現場を見つめていた純粋な目は、いまもその輝きを失ってはいない。

吉田 繁 棟梁

吉田 繁棟梁

家づくりを演出する職人。

伊達市南黄金町の作業場で、独り、黙々と仕事をつづける職人、吉田繁棟梁。「シュッシュッ」、引渡し間近な建て主への、心のこもったプレゼントは、すでに仕上げの段階に入っていた。木目の一本一本に、命を吹き込むように、丁寧にヤスリをかける。毛糸の帽子にトレーナー、作業用のベストを羽織る姿が個性的だ。制作中の作品は、横にすれば本立て、立てると整理棚となる。所々に曲線を持たせたデザインは、シンプルで機能的。木の温もりは、棟梁の洗練された技術で、その輝きを増している。

森と湯のマチ、大滝村で生まれ育った吉田棟梁。春の新緑、夏の濃い緑、秋の紅葉、冬の凛とした木立。幼い日から、神秘に満ちた森の四季を、記憶の中から染み込ませてきた。森は遊び場であり、棟梁の感性を磨いた師匠でもある。15歳の春、中学卒業と同時に、建具職人の元へ弟子入り、以来20年、建具職人としての腕を磨く。30も半ばを過ぎた頃、転機が訪れる。建築大工への転身。「同じ木を扱う仕事、細かな造作には自信がある」と決心した結果であった。とはいえ、建具づくりとはまったく違う工程、技術。しかも20年も培った職人のプライドもあった。師匠もなく、現場で仲間の仕事を盗む毎日。独学で、現在の地位を築いた異色の棟梁だ。

家づくりにおいて、図面を脚本に例えれば、棟梁は演出家。しかも舞台監督も兼務する。その手腕次第で、家の良し悪しが決まる。吉田棟梁は「お客さんが喜ぶ家が良い家」と言い切る。単純明快、非常に分りやすいが、自らの技術に自信がなければ、この答えは出てこないだろう。建具職人時代から数えれば、大ベテランになるキャリアには、計り知れない重みを感じる。

棟梁は事務屋泣かせ。建て主の要望には、採算度外視で応える。既製品を利用することが多くなった現在の家づくり。「何なら窓枠も自分で作っていいんだ」と、細かな作業には、何のためらいもない。建具職人時代の技術が、棟梁の家づくりに花を添える。その確かな仕事が、建て主を喜ばせてきた。修行時代以外は、生まれ故郷の大滝村を離れたことがない。現在も北湯沢で暮らす棟梁は「この自然が好きなんだ」と笑う。

辛かったことは口にしないのが職人気質。そんなときはきっと、故郷の山や森が、吉田棟梁の心を和ませたに違いない。

大塚 威仁 棟梁

大塚 威仁棟梁

「信用」を求めて、自然・木との対話。

大塚18歳のとき、名人と言われた虻田町の棟梁・木下修氏に師事。木下は弟子を取らないことで有名、ある意味幸運なスタートを切った。職人の世界に「教える」、ということはない、ただ師匠の仕事を目で盗む毎日。現場の張り詰めた空気が大塚を育てた。駆け出しの仕事は時間だけが過ぎて行く、夜遅くまでの作業も度々、木下はそんな大塚の仕事を何も語らず、ただ見守ってくれたという。そんな師匠が一つだけ教えてくれたのは「信用」だった。確かな仕事で建て主に安心を与える。簡単に思えた唯一の教えも、その奥深さに気付くには、長い時間を要した。

27歳で独り立ち、棟梁となり現場を任される。寡黙でひた向き、まして仕事の自慢話など絶対に言わない。まさしく職人の素質を兼ね備えていた。その熱心で丁寧な仕事ぶりが評判となり「あの大工さんに建ててほしい」といった要望が聞かれるようになる。今ではリフォームを含め、年間5棟もの指定があり、半年先までの仕事で予約が埋る。なかには「1年位待ってもいいから、ぜひ大塚さんに」といった要望も飛び出す。優秀な営業マンをも凌ぐ成約率だ。

「木は生きている」と言われる。素直なもの、我の強いもの、また、耐水性に優れたものや狂いの少ない材質、様々だ。この組み合わせが建物自体の良し悪しを決める。大塚は「木口を見れば分るよ」と笑う。名人から受け継いだ職人技、自信に溢れた笑顔が、安心感を与えてくれる。木造建築は木が命、材料の段階で悪いものは使わないのが大塚流。建て主との信頼関係を第一にするからだ。シュッ・シュッ。小気味のいい鉋(かんな)の音とともに木目が輝きを増す。新たな息吹を感じる瞬間だ。「電動工具は便利だけどやはり仕上げはこっちだね」。自然に逆らうことなく、木との対話ができる職人。

「信用」、師匠の教えは、大塚の心の中で日々進化している。

佐藤 信之 棟梁

佐藤 信之棟梁

豊かな発想を形にする―。図面にはないプラスαで家づくりを演出。

霧の街、釧路で生まれ育った佐藤。厳しい自然環境は粘り強い職人気質を育み、はっきりとした季節の移ろいが、たぐいまれな感性を与えてくれた。「土が文化をつくる」といわれる通り、北の大地そのものが、職人・佐藤の根底にある。地元、釧路工業高校の建築科で学び卒業と同時に叔父が経営する白老町の建設会社に入社、大工の道に入る。一般住宅からマンション建築まで、あらゆる建設に携わり、もって生まれた柔軟な吸収力で、仕事を身につけた。師匠の叔父は厳しく佐藤に接したが、「身内への甘えがある。違った環境へ身を投じたい」と一念発起、優秀な職人が集まると聞いた住まいのウチイケの門を叩いた。佐藤20歳のときだ。

経験豊富な棟梁たちのもと、貪欲に仕事を盗む毎日、現場で素早く動き回る姿が、日増しに逞しくなる。遠目に佐藤の仕事ぶりを見ていた棟梁たちは気付いた。「こいつには俺達にない感覚がある」「若さだけではない、時代が求める職人」。二年後、22歳の若さで棟梁に抜擢。異例中の異例だ。年上の職人たちを持ち前の明るさでまとめあげ、「佐藤の現場は丁寧なうえ工期が早い」とまでいわせ、過大ともいえた期待に応えた。

経験を重ねたいま、伝統の技に佐藤独自の感性を折り込んだ家づくりが話題になる。洋風化が進む住宅には、これまでの常識が通用しなくなってきた。芸術的ともいえる佐藤のちょっとした工夫が、建て主を満足させるのだ。それでも、棟梁として紹介されたとき、若い職人に施主は戸惑いの表情を見せる。が、その仕事ぶりを目の当たりにしたとき、不安は信頼へと大きく変貌する。無駄のない動き、決して手を抜かないひたむきさ、さらに話しやすい人柄が納得のマイホームを完成させる。そんな職人・佐藤のモットーは「お客さんを喜ばせる家づくり」。「いろんな工法があるからね。頭じゃなく、体に覚えさせないと」と、修行時代と変わらぬ積極さで腕を磨く。「引渡しのとき、施主さんの喜ぶ顔を見るのが大工の醍醐味」といい切る。

もって生まれたセンスが大きく反映される現代建築、佐藤棟梁活躍の場が大きく広がり、喜んでもらえる家づくりのため、変わらぬ努力の日々が続く。

石坂 清智 棟梁

石坂 清智棟梁

優しさで感性を磨く職人。

国道37号線から、緩やかに噴火湾へ向け下る丘陵、湾の対岸には渡島半島の山並みが連なり、鶴ヶ丘のシルエットが浮かび上がっている。石坂棟梁が生まれ育った伊達市・舟岡町の景色は、のどかな田園風景と、北海道ならではの雄大さが混在し、夕暮れには茜色に染まる夕陽が人の心を癒す、幻想的な世界を創りだす。「伊達が好きだね」。ポツリと小さな声で答えた棟梁の表情は、自然な優しさを湛え、寡黙な人柄をにじませていた。

昭和50年、伊達市生まれの石坂棟梁。この世界ではまだまだ若い職人だが、口数が少なく、黙々とこなす真面目な仕事振りは、職人仲間から一目置かれる存在、何より施主の信頼感には絶大なものがある、期待の新星だ。地元の高校を卒業後、室蘭市内の企業に就職するが、中学校の時新築した実家で働く大工に抱いた「憧れ」を断ち切ることができず退社、伊達市内の建築会社に再就職し、職人の道に飛び込んだ。「さらに腕を磨きたい」との思いが強くなり、昨年夏に腕利きの棟梁が揃う住まいのウチイケの門を叩いた。

大工歴40年、50年以上のベテラン棟梁の中で、より確かな仕事を学び、スポーツで鍛えた体力が、厳しい先輩職人の教えを体で吸収させた。「丁寧に、喜ばれる仕事がしたい」。現場で鋸を引く棟梁の表情は、言葉通りの真面目さが漂い、余計な言葉を発しない性格同様、無駄な動きがなく、的確にこなす仕事振りに「職人の凄さ」を感じさせる。「夢は自分の家を建てること」。照れながら答えた石坂棟梁の頭の中には、最愛の家族のため、優しさを一杯盛り込んだ図面が、既に引かれている。棟梁が手がける家には、「優しさ」という温もりがある。

杉本 廣二 棟梁

杉本 廣二棟梁

良質を追い続ける寡黙な職人。

幼い頃からモノづくりが好きだった。大工である父の影響を受け、15の春、この道に進む。職人の道を歩み、今年で20年。父から受け継いだモノづくりの精神や職人技術を胸に黙々と仕事をこなす。

道内でも比較的温暖な気候の室蘭。とはいえ、北西よりの風が多く、冬期間の風が強いのが特徴だ。気候風土を知り尽くした杉本棟梁は、この地域に合った家づくりを心掛けている。木造軸組工法は、空間設計の自由度が高い。それだけに、時に現場でのフレキシブルな対応力も求められる。現場での手仕事を惜しまず、お施主様の夢や希望を実現するために、真摯に取り組んでいる。

「引渡しのとき、お施主さんから“良かった。ありがとう”という声をかけていただけること、喜ぶ顔を見られることが何よりの醍醐味」と語る。丁寧で確かな仕事なぶりに定評がある。

一生懸命さと責任感の強さ、現場の綺麗さは誠実さの表れ。多くを語らない寡黙な棟梁だが、仕事ぶりを見て貰えれば、想いを込めて良い家をつくるという心意気はきっとわかっていただけるはずだ。

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